空間、資料、媒体、会話、味覚、などには余白が必要だと考えます。
余白がないという状態はつまり余裕がないわけで、それは快適な状況ではないと思うのですがどうでしょうか。
また、余白があるからこそ主物が活きると思うのです。
でもあくまで私個人の意見なので絶対に正しい考えとは思いません。
珈琲の味と同じで、主観による判断は真実本人には正しくても、相対的に考えればいかがなものかと思うのが健全かもしれません。
とりわけ珈琲について考えますと、いくら味の良し悪しを論じてみたところで、詰まるところ嗜好品である以上は十人十色なのですから、そこに客観性を求めることはやはり難しいと思われます。
ですので提供する立場としては、「うちの味はこうである」と決めて、真摯にその味の向上維持に取り組むべきであろうと思います。要するに決めの問題かなと思うわけです。
例えば、焙煎したての新鮮な珈琲を提供する、焙煎数日後に提供する、しっかり熟成させてから提供す る。どれも正しいと思います。
ちなみに当店では焙煎後数日エイジングしてからその豆にとって最適なタイミングで出すようにしています。浅すぎないよう、深すぎないよう、中庸ですね。
どれも正しいとは思いつつ、でも自分はこうだよ、と自信をもって提供できる強さには、味覚の余白を意識することが必要かなと思います。
つまり、人の味覚(感じ方)にはゆらぎが常にあるということを念頭におくことかなと思います。
その不安定なゆらぎを踏まえて、おおよそ美味しいと思われるところに着地させる、非常に難しいですが、それをカバーできるのには「余白」が必要なのではと、よく分かるような、分からないような、そんな話なんです。
逆に、もし私自身が提供される側、つまり客として楽しむためには同じように味覚の余白を意識するほうがいいのかなと思います。
つまり、楽しみ方を幾通りも用意しておくことで、どんなものを頂いてもその場を楽しめるのかもしれません。
結局、余白があるからこそ、主物(やりたいこと)が際立ち、楽しめるのではないかと。
そしてそれは、
空間も
資料も
媒体も
会話も
人間関係についてもでしょうか?
店主